はたして、私たちの日々のくらしに椅子は必要か?
欧米人や中国人には意味の通じないこの設問も、日本人に対しては意味を持つのではないだろうか? 普通の日本人にとって、椅子に座るようになったのはほんのちょっと前のことである。一部の貴族や僧侶をのぞいて明治維新の西欧化・近代化の過程で、はじめて椅子は日本人の生活に現れてきた。

新橋の居酒屋で酒を飲むサラリーマンは、背のある椅子に座っている姿よりも、小上がりの畳の上で胡座をかいて座っている姿の方が格好よく見える。千葉の妻の実家は、江戸時代から続く農家で、部屋には一切の椅子はない。夏休みに井草の畳の匂いを嗅ぎながら昼寝をするのは、僕にとっては何にも替えがたい素晴らしい体験である。

今から60年前の小津安二郎の映画「東京物語」で、美容室を営む長女志げの美容室と原節子演じる紀子の仕事場以外、人が暮らす生活空間はすべて畳の部屋である。黒船来航から80年経ったこの時、まだほとんどの日本人は床に座っていた。今日でも、椅子に座って始まった宴会が酒が進むうちに一人二人と床に座り、最後は全員が床に座っている、ということはよくあることである。私たちは私たちの生活空間の中で、椅子の定位置を見つけられずに持て余しているのではないだろうか。

古代エジプト、メソポタミア、ペルシア

現存する最も古い椅子のひとつに、紀元前26世紀の古代エジプト第四王朝、クフ王の母であるヘテプヘレス王妃の椅子がある。肘掛のついたこの優雅な椅子は、王家の権威を表すためのものであった。エジプトのファラオ(君主)たちは国を治めるため、自分の権威を国民に知らしめるために椅子を用いたのである。クフ王の椅子に座った像は王の権威の大きさを今なお感じさせる。第18王朝のツタンカーメンの黄金の椅子の背には、椅子に座った王のレリーフが施されている。椅子がいかに大事だったかがうかがわれる。この権威の象徴であるアームのついた椅子は、後のギリシャでスロノスと呼ばれる玉座へと受け継がれる。

紀元前21世紀の古代メソポタミア、ラガシュのグデア王の座像には、背もたれはないものの美しい椅子が彫られている。紀元前13から紀元前11世紀のレバント地方(東部地中海沿岸)から出土した、宴会の座像に彫られた椅子、紀元前5世紀から4世紀のアケメネス朝ペルシャ(現在のイラン、イラク)のクセルクセス1世のレリーフに彫られた椅子はほとんど現代のものとほとんど変わらない。

いずれの椅子も古代の大帝国とその支配者たちと深い関係があることが分かる。国家が生まれる前の小さな村のような社会においては、権威を示すための椅子は必要なく、王が生まれ国家が生まれた時、初めて椅子が必要になったのではないだろうか。人間にとって実用的な道具として、腰掛のようなスツールは必要であっても、背もたれのある椅子は必ずしも必要ないのかもしれない。

古代ギリシャ

紀元前5世紀ころの古代ギリシャでは、王や神官以外の人も背もたれのある椅子に座るようになった。古代ギリシャには前述のスロノスの他にクリスモスと呼ばれるアームのない椅子が登場する。世界で初めて民主主義の原型を実現した古代ギリシャにこの椅子が生まれたことはとても興味深い。

クリスモスはファラオの椅子に比べると簡素で小さく、4本の脚は女性的な曲線を描き軽快である。民主主義とは言っても、政治に参加できた市民はごく一部の男性に限られ、女性や多くの奴隷は市民権を持っていなかった。それまでは王と神官に集中していた権力が、ギリシャのポリスでは一部の市民権をもつ人々も政治に参加するようになり、その市民の中に椅子を所有する者が出てきたのである。

この時代のレリーフにクリスモスに座る女性が多く描かれていることから、女性用の椅子と解釈されることもあるが、男性が座っているレリーフもあり、一概にそうとも言えないのではないかと思う。市民である男性に所有された妻が家庭で使用しているか、あるいはヘタイラと呼ばれる、男性と同じ特権を持った高級娼婦であると想像される。

一見、権威とは関係がないように見えるこの椅子も、やはり政治に参加できる特権を持つ人びとのためののものである。

ヨーロッパ

これ以降のヨーロッパで、中世の封建社会からルネッサンス、バロック、ロココに至るまで、椅子はそのほとんどが、権力を独占した王や貴族の邸宅を飾るため、あるいは教会の権威を示すためのものであった。その様式の変遷は別の機会にまとめてみたいと思う。

16世紀ころになると貿易や商業で財を成した一部の市民、商人も椅子を所有するようになった。その当時のオランダの絵画にその椅子を見ることができる。フェルメールヤコブス・フレルの描いた室内空間にはいくつもの椅子が登場する。通称「父の訓戒」と題されたヘラルト・テル・ボルフの絵に描かれた人物は父と娘ではなく、実は椅子に座る兵士と娼婦であり、当時の都市では娼婦の宿にも椅子があったことを教えてくれる。さらに、17世紀フランスの農民の家族を描いたル・ナン兄弟の絵画にも背もたれのある椅子があることから、農民であっても豊かな家には椅子があったのではないかと想像される。

15世紀にグーテンベルクの発明した活版印刷機によって、「知性、読み書き」がゆっくりと人々に伝播されていったことに呼応するかのように、椅子も人々の生活に広がっていったのではないだろうか。背もたれのある椅子が機能的・実用的で、特に必要だと感じるのは文字を書いたり本を読んだりする時ではないだろうか。フェルメールの「手紙を読む女」の室内にも椅子は置かれている。

いわゆる市民や農民、一般の家庭に椅子が本格的に普及するようになるのは、産業革命後の18世紀になってからである。フランス革命によって政治権力の大きな部分を市民が手にするようになり、また大量の椅子を生産できる産業背景とともに、ようやく椅子は人々に普及した。20世紀にジオ・ポンティがデザインした「スーパーレジェーラ」の原型となったイタリアの職人ジュゼッペ・ガエターノ・デスカルツィがデザインした「キアヴァリチェア」、新大陸で独自の進化をしたイギリスの「ウィンザーチェア」はいずれも18世紀後半から19世紀前半に生まれた。

中国

エジプトを起源とした椅子は、中国でまったく独自の進化をした。日本に中国経由で伝わった「床几」(しょうぎ)背もたれのない折りたたみ椅子は「胡床」(こしょう)とも呼ばれ、「胡の国」とは現在の中央アジアのことで、中国から見ると西の国のことであり、椅子も西の方からの騎馬民族が運んできた。それ以前は床に座る正座が正式な座り方で、「胡人」が治めた魏晋南北朝(184年—589年)の魏の国のころから椅子に座るようになったとされている。隋の時代(581年—618年)には少しずつ一般家庭にも普及しはじめ、宋の時代(960年—1279年)には椅子の生活様式が広く中国全土に広がって行った。皇帝の肖像画が椅子に座ったものになるのも宋の時代になってからである。

中国の大帝国を治めるためには皇帝の強大な権力とともに中国独自の巨大な官僚制が必要であった。科挙制度と呼ばれる官僚選抜試験を実施し、誰でも優秀であれば官僚の椅子に座ることができた。の時代(1368年—1644年)にいくつかの美しい椅子が出来上がる。その中に背のかたちが官僚の帽子に似ていることから「官僚の帽子椅子」と呼ばれる椅子があり、多くの中国人がこの椅子に座るために、過酷な受験競争に挑んでいった。

因みに最古の印刷とされる中国の木版印刷は唐の時代に始まったとされ、儒教の経典が刷られた書物が社会に広がっていった。知性、読み書きの伝播と椅子の普及とは関係があるように思える。

中国の「蹄鉄椅子」に見られる、脚先に向けてわずかに広がった4本の脚、背の曲線、全体の安定感のある造形は、ハンス・ウェグナーの「チャイナ・チェア」と名付けられた椅子の原型である。僕には、「Yチェア」「ザ・チェア」などの一連のアームチェアも、中国の椅子が原型にあるように思えてならない。同時代の中世ヨーロッパの椅子と比べて遥かに機能的であり、美しい造形であると感じる。五代十国時代(907年—960年)の絵画、「夜宴図」に描かれた貴族の暮らす室内空間とそこに置かれた椅子、音楽を聞く人々の様子は耽美で美しく洗練されている。

権力と椅子

僕は歴史の専門家でもなく社会学者でもないので、かなり大雑把な考察によるものではあるが、こうして椅子の歴史を辿ってくると、人々がどのようにして椅子に座るようになったかを通して人類史そのものが見えてくる。

元々は大きな権威を示す必要のない、椅子のいらない村のような共同体世界があり、やがて王と国が生まれる。(なぜ、王と国が生まれるかはここでは立ち入らない。)国ができる時に椅子はその国の中心に生まれた。権威を示す椅子に座ることは統治を司る限られた人々の特権であったが、国が大きくなるにつれ、徐々に統治権力に携わる人も増えていき、椅子に座る人も増えていった。国の中心から端の方へ、水滴が波紋を描くように広がっていった。

やがて統治する人々以外にも、商業で富を得て文字を読んだり書いたりできるようになった人々も椅子に座るようになった。印刷に代表されるような技術革新と産業革命によって、知識や知性が社会に広まっていくのと呼応しながら椅子も広まっていった。民衆が権力を手にするようになる近代民主主義の時代には、椅子は国の辺境にまで達した。

1960年のアメリカ大統領選挙のテレビ討論会でJ.F.ケネディが座った、近代を代表する「ザ・チェア」に、僕も座ることができるようになったのである。古代エジプトでは考えられないことである。

日本

日本には椅子の歴史がないとされている。
7世紀末に日本という国が生まれた時、その都である奈良の平城京は唐の長安にならってつくられた。律令を中心に据えた国づくり、官僚制度、仏教、いずれも中国を手本にしたものである。当然、椅子も中国から日本にもたらされていたはずである。平安時代に唐に渡り仏教を日本に伝えた天台宗の開祖である最澄の肖像画には中国の椅子のようなもの(たぶん瞑想椅子と呼ばれる椅子だと思われる)が描かれている。座面は胡座がかけるほど広く、その高さは椅子よりも低く、椅子と読んでいいものか難しいところである。これ以降、多くの僧侶の肖像画に同じような椅子らしきものが描かれている。

しかし、統治者の権威の象徴としての椅子は中国の影響を強く受けた飛鳥、奈良、平安時代の天皇の肖像に少し見られるが、その後の日本に見つけることはできない。最初の将軍、源頼朝歴代の江戸幕府の将軍、天皇の肖像は床に座っている。椅子は日本に伝えられてはいるものの、決して普及することはなかった。

そして、椅子に座った天皇の姿を見ることができるのは明治維新の近代国家建設の時である。天皇の玉座である高御座に椅子座が組み込まれたのも大正時代になってからである。近代国家の体裁を整える中で、国家の中心をつくりだすべく椅子は導入されたものではないだろうか。

柳田國男の『蝸牛考』の中で、日本の中心で使われる関西弁がより新しい日本語であり、東北弁のような方言が古い日本語であると書いている。新しいものは中心から伝播して周辺に古いものが残るという周圏分布と呼ばれる構造があり、すでに発祥の地では忘れられた仏教が日本に残っている事実はそのことを証明している。

椅子が日本において普及しなかったのは、気候や建築様式、畳の発明などたくさんの理由があると思うが、そのひとつとして、日本が辺境の島国であるという地理的な条件によって、日本への椅子の伝播が達成されていなかったからと考えることはできないだろうか。さらに、中国の皇帝のような椅子に座った絶対的な権力を持った王が誕生しなかったこと、権力を国の一点に集中させない天皇と征夷大将軍による統治体制(王が誕生する以前の村のような権力のあり方を可能にしたこと自体も周圏分布の構造によるものかもしれないが)も椅子の権威を必要としなかった理由のひとつなのではないだろうか。あるいは、わずか数ミリの畳の厚さ分の高さの違いで十分権威を感じることができる、日本人の繊細な感受性によるところもあるのだと思う。

椅子が私たちの生活空間に馴染むには、まだしばらく時間がかかるのかもしれない。

文・清水 徹
2011.2.20