イタヤカエデ
冬の終わりの大雪山の麓の森は季節はずれの雨が降っていた。
森の案内人に連れられて、イタヤカエデの老木を訪ねた。
「植林された針葉樹の林の中は雪が固くて歩きやすいけど、暗くて生きものがあまりいないんだ。」
一度葉に降った雪が、固まった状態で地面に降り積もるために雪が固く、確かにスノーシューがスムーズに進む。たった100年くらい前まで、このあたりには人がほとんど入らない、針葉樹と落葉広葉樹が混じり合った、冬になると明るくなる森があった。森の案内人が教えてくれた黒沢明の映画、「デルス・ウザーラ」の舞台となった極東ロシアの森と同じ明るい森である。
暗い林を抜け、ふたたび明るい森に出る。急な斜面を一息に登る。鹿の足跡は二筋の細い線となって尾根に沿って続く。大雪のパウダースノーに鹿の細い脚は深くもぐりこんで細い線となる。
「ほらそこ、今朝、鹿が寝転んで休んでいたみたいだね。鹿も食べものがないからたいへんなんだ」
畳1畳くらいの範囲の雪がぺしゃんこにつぶれて、笹が見えていた。食べものを求めて森の中をさまよう鹿の姿を想像した。
イタヤカエデの老木は静かに現れた。もしも木に性別があるとしたら、その木は女性のようだった。繊細な枝ぶり、大きく広がった樹冠はみずならのそれよりも優しく見える。
「樹齢は500年くらいかな。まだまだ元気だね」
この森にほとんど人がいない頃、アイヌの首長コシャマインが和人に蜂起した頃に、芽を出したことになる。
遠くからは繊細に見えていたイタヤカエデも、幹に手が届くほどに近づくと、その大きさと力強さに圧倒される
イタヤカエデは西洋でメープルと呼ばれる木の仲間である。白く明るい色、きめが細かくやわらかい表情とは裏腹に硬い木である。アメリカ大陸北東部の先住民は、春先にこの木の樹液を煮詰めて甘いシロップをつくった。その後この大陸にやってきた人々もこの木の恩恵に授かった。帽子や洋服、時には椅子を掛けるために部屋の壁につけられた、シェーカーのつくったものの中でもとりわけ美しい、ペグはこの木を削り出してつくられた。メープルは北米を代表する木としてカナダの国旗に描かれ、ニューヨーク州のシンボルツリーでもある。
ヨーロッパの古典音楽はこの木によって奏でられた。メープルは多くの弦楽器の裏板や渦巻き部分に用いられた。イタリアの名工ストラディバリのヴィオラ、バロック音楽を演奏する楽器リュートは、虎の柄のような虎杢、鳥の目のような鳥目杢と呼ばれるきれいな模様の現れたメープルでつくられた。バッハやヴァイスのリュート音楽の、ギターよりも小さな音、静かな音、か細く優雅な音はメープルの音のようだ。
天気予報の通り、雨が強くなって風も吹いてきた。一度解けた雪は氷となって固まり、スノーシューが重くなる。脚がなかなか前に進まない。体が冷えきって疲れきったころに、ようやく森から出てきた。案内人の森の地図には、まだたくさんの大木がマークされていた。森の案内人と別れたあと、暖かい部屋で音楽を聴きたくなった。