鬼胡桃

早春の大雪山の森に分け入った。

大雪山系は北海道の最高峰、旭岳がそびえる、アイヌがkamuy mintara(神々の遊ぶ庭)と呼ぶ聖域である。麓の町、東川町の雪が溶け始める3月、山の森はまだ雪深く音のない白い世界が広がっていた。みぞれまじりの雪の降る中を、エゾシカの足跡に沿うようにスノーシューを踏み進める。森の案内人は、樹皮と枝振りを見ながら「あれがエゾマツ、トドマツ、こっちがダケカンバ....」と教えてくれる。「木はこまかいところを見ないで、全体の印象、雰囲気で見分けるんだ。」夏には笹が生い茂り決して立ち入るとのできない森の奥へ、笹の上に雪の積る冬の間だけ、彼は樹木や動物に会いにくるように、ほぼ毎日この森を訪れる。

針葉樹の多い標高の高い森から、広葉樹が目立ち始める中腹の森に降りてきた。ヤチダモ、ハルニレ、エゾイタヤ、泥の木。沢のそばで1本の鬼胡桃(オニグルミ)の木を見つけた。その実の殻がごつごつとしていて石のように堅く、先端が尖り「鬼」の角のように見えることから名付けられたのか、枝が鋭く太く上に伸びる様は鬼のようである。「この木は僕と同い年くらいかな。」森の案内人は直径25cmほどのひび割れた木肌に触れながら、樹齢およそ50年と教えてくれた。

西洋でウォールナットと呼ばれるクルミの木は、中央アジアからバルカン半島を経てヨーロッパへと渡る。堅く緻密で加工しやすく、美しい木目は磨くと艶が出ることからウォールナットの家具は多くの貴族を魅了した。西洋家具の歴史では、17世紀後半から18世紀前半にかけてをウォールナットの時代と呼ぶ。近代アメリカの家具デザイナー、ジョージ・ナカシマはブラックウォールナットに魅せられた一人である。

一方で、この魅惑的な木は魔界を象徴する木でもある。ローマの博物学者プリニウスは、根に毒を持つクルミのそばには、ほかの木が育たないことから「オークの敵」と呼び、中世イタリアの町、ペネウ゛ェントの伝説では、魔女たちがこの木の下に集まり、箒にまたがり空を飛んだ。アイヌの神話には、悪魔の子がクルミの矢を水源に放つと、クルミの水、濁った水が厭で、鮭が泣きながら引き返すという一節がある。
ウォールナットのうねった木目は怪しく、美しい。

「あっ、これ。モモンガの糞。」森の案内人はハルニレの木の下で笑いながら教えてくれた。根元の雪の上には米粒くらいの糞が散っている。彼が頭を上げ梢を見上げると、木も喜んでいるように見えた。「木を切る人が森に入ると、すべての木がたちまちにそのことを知る。だから木を切る時には木々に深い祈りと感謝を捧げる。」飛騨の山奥で薪をつくる牧師の言葉を思い出した。木の家具をつくる仕事は、木のいのちをいただく仕事である。そのことを忘れないようにしたい。「今度くる時は、樹齢500年のみずならの木を案内するよ。」と森の案内人と約束して大雪山の森を後にした。

文・清水徹
2008.3.24